第2話「ジェノバの少年マルコ」より

食事にぶどう酒は欠かせない



 第5話『なかよしエミリオ』より

親子で乾杯



 第8話「ゆかいなペッピーノ一座」より

 ペッピーノに誘われ、一緒に食事をする。この時ぶどう酒を何杯飲んだかは、次の第9話で明かされる。



 第9話「ごめんなさいおとうさん」より

 「水で割る」という飲み方もあるということだ。旅に出てからは、割って飲むことが多くなる。
 (※ サブタイトルの意味は、酔っ払ってしまったことを謝ってるのではない。)



 第11話「おかあさんの手紙」より

 ペッピーノ一座と乾杯。フィオリーナも飲んでいるのが、なんだかうれしいではないか(笑)。



 第14話「マルコの決意」より

親子3人で乾杯



 第17話「赤道まつり」より

 マルコはあるものを見て驚いて、ぶどう酒をこぼしてしまいます。



 第21話「ラプラタ川は銀の川」より   船長室にて

ぶどう酒を水(お湯?)で薄めます



 第24話「待っててくれたフィオリーナ」より

フィオリーナも一緒に飲んでいるのがうれしいではないか(笑)。



 第30話「老ガウチョ カルロス」より

 第30話のフィニッシュ部分。この場面、ぶどう酒を飲んでるのは店主とペッピーノだけかもしれないが、コンチェッタ、フィオリーナ、マルコの3人も最初ちょこっとだけ飲んだという可能性も否定できない。



 第39話「ばら色のよあけロサリオ」より   1杯目

割っているとはいえ、見事な一気飲み


 続いて2杯目   これも飲み干します

この後さらに飲んだかもしれません



 第40話「かがやくイタリアの星一つ」より   OPで描かれてる場面ですね

「一口飲みな」と言われても、飲める状況ではない



 第52話「かあさんとジェノバへ」より

もはや大人扱いのマルコ


 帰途の途中、食堂「イタリアの星」にて

ここでは大人たちに飲まされてしまったかもしれない


◇◆◇◆◇



人生のうちに何度でも味わうべき名作『母をたずねて三千里』


 子どもたちへの挑戦


 1976年の本放送時、私は子どもだったが、途中で見続けられず離脱してしまった。待てど暮らせど、マルコは一向に母をたずねてアルゼンチンへ旅立たなかったからである。ロードムービー的な冒険旅行を期待してたのに。
 後になって知ることだが、全4クール52話のうち最初の1クール以上を、主人公マルコは旅に出られずジェノバでジタバタ過ごすだけなのだ。
 今でこそ全話一気見できるが、毎週わずか30分だけ放送し、いつ旅立つのいつ旅立つのと焦らされるのは、子どもにとって拷問に等しい。この作品は子どもたちへの挑戦状だったのである(笑)。

 灰色が、ジェノバが舞台の回

第1話いかないでおかあさん
第2話ジェノバの少年マルコ
第3話日曜日の港町
第4話おとうさんなんか大きらい
第5話なかよしエミリオ
第6話マルコの月給日 
第7話屋根の上の小さな海 
第8話ゆかいなペッピーノ一座
第9話ごめんなさいおとうさん
第10話かあさんのブエノスアイレス
第11話おかあさんの手紙 
第12話ひこう船のとぶ日
第13話さよならフィオリーナ
第14話マルコの決意
第15話すすめフォルゴーレ号
第16話ちいさなコック長
第17話赤道まつり
第18話リオの移民船
第19話かがやく南十字星
第20話おおあらしの夜
第21話ラプラタ川は銀の川
第22話かあさんのいる街
第23話もうひとりのかあさん 
第24話待っててくれたフィオリーナ
第25話ペッピーノ一座大あたり
第26話草原へ
第27話フィオリーナの涙
第28話バルボーサ牧場
第29話雪がふる
第30話老ガウチョ カルロス
第31話ながい夜
第32話さようならといえたら
第33話かあさんがいない
第34話ジェノバに帰りたい
第35話おかあさんのなつかしい文字
第36話さようならバイアブランカ
第37話はてしない旅へ
第38話かあさんだってつらいのに
第39話ばら色のよあけロサリオ
第40話かがやくイタリアの星一つ
第41話かあさんと帰れたら
第42話新しい友だちパブロ
第43話この街のどこかに
第44話フアナをたすけたい
第45話はるかな北へ
第46話牛車の旅
第47話あの山の麓にかあさんが
第48話ロバよ死なないで
第49話かあさんが呼んでいる
第50話走れマルコ!
第51話とうとうかあさんに
第52話かあさんとジェノバへ


 全体との比率からしてジェノバ編が長すぎる!(笑)
 しかも、ほぼマルコ視点ですべて時系列的に話が進んでいくため、何がどうしてこうなってるのか分からないまま視聴者は見続けなければならない。母親はなぜ働きに出る必要があったのか、なぜ遠い遠いアルゼンチンなのか、父親はどんな仕事をしているのか等々が、マルコ周辺の経済社会情勢、就職事情、賃金水準、生活水準、暮らし向き等々の丁寧な描写とともに、あたかもミステリー小説が少しずつ手掛かりを提示していくように少しずつ少しずつ明かされてゆくのである。
 
 そこまでは良いのだが、母親が次第に音信不通となっていく部分も同じ手法で描かれているから、原作を読んでる我々知ったかぶりの子どもたちは「とにかくとっととアルゼンチンへ行けよ!」と業を煮やしたのであった。
 (常にマルコ視点。なので、旅の途中、「一方、その頃母親は・・」という描写は切り札として最終盤まで出さないし、「一方、その頃ジェノバでは・・」といった描写に至っては皆無である。)

 ついでに言えば、これはさらに次の段階の話であるが、番組OPの〈ポンチョに夜明けの風はらませて〉の情景は、シリーズ終盤のほんの一瞬を捉えたものに過ぎないのだ。
 誰もが、せめて物語全体の中盤付近にあの場面が登場するものと期待して待っているというのに、いつまで経ってもポンチョを羽織ってロバに跨ったりしないのである。欺罔に近いのではないのか!(笑)
 それは冗談だけど、〈はるかな北を めざせ〉という意味を、原作をちゃんとよく知っている人にはちゃんと伝わるという前提で作られた主題歌だったっていうのは、ちょっと凄いよね。この〈はるかな北を めざせ〉の箇所の大杉久美子の表情はまさに神がかっていて、「この旅の途中でもし死ぬようなことがあっても、マルコ、お前はためらうことなく旅に出られたのだから幸せだったんだよ・・」 とでも語ってるかのような超然さである。ですよね。

 話それました。なんだっけ、出発が遅いっつー話でした。
 だがまあ、例えば1978年度のTVアニメ『宝島』。あれは2クールの作品だけど、出帆は第6話だった。それでも私は長く感じたんだよね(笑)。待ってられないの。『ガンバの冒険』みたく第1話で出発してもらいたい。せっかちなんだよね、要点が早くほしい性格なんだわさ。

 でも、出発が遅いから全体が良くなるということもあるのかもしれない。
 例えば黒澤明の映画『隠し砦の三悪人』。砦を出てからメチャクチャ面白くなるんだけど、あれも出発するまでが遅く感じる。しかし前半が緩やかだからこそ後半の迫力が増す、という映画なのかもしれない。あるいは、藤井曲線のような映画とも言えるかもしれない。言えねーよ!
 よく分からないんだよね。「構成」がどこまでこの映画を面白くしてるのか、してないのか。

 TVアニメ『母をたずねて三千里』の場合、今見るともちろんジェノバ編も重要なのだが、やはり旅立ちまでのもどかしさがある。
 それでなくても大河アニメなうえに、旅立ちまでに1クール以上。鑑賞するのに覚悟が求められる作品だ。
 この挑戦に応えた子どもたちは、しかし一生の財産となる心の冒険を疑似体験できることになろう。間違いなく名作です。

 『あらいぐまラスカル』は最終回で旅立つ物語、という見方もあるのかな。。



 大人たちへの挑戦

 考えてみりゃ、外国で音信の途絶えてしまった母親のところへ子どもが会いに行くのだ。たった1人で。父親の了解のもと。そこに至るまでの物語上の説得力が必要。父親はマトモな人間である。いくらマルコが江戸川コナンばりのバイタリティの持ち主であっても、「よし行ってこい。頼んだぞ。」と簡単に許さない作品世界だ。じっくり細かい描写を重ねてゆくよりほかなかったのかもしれない。

 ジェノバ編では、ほかにペッピーノ一座との交流が描かれている。ジェノバ編が長くなった理由の一つである。
 ペッピーノの次女フィオリーネは本作品のヒロインであるが、原体験をする時点で我々はそんなこと知らないから、このやたら無口な、性格が良いんだか悪いんだかも分からない女の子が、作品内でどんなポジションにつくのか判然としない状態でマルコとフィオリーナを見守ることとなる。
 それこそ『紅の豚』のフィオだ。映画館で何の予備知識もないまま観た時、この女の子がヒロインになるとは登場シーンでまるで気づかなかった(笑)。

 ところが唯一絶対のヒロインであるにもかかわらず、フィオリーナは旅の途中でマルコと別れ、物語の後半はもう出てこなくなってしまうのである。『フランダースの犬』でアロアが途中退場するようなものではないか。あり得ない。
 これは何を意味するのだろう。

 青色が、フィオリーナの出る回

第1話いかないでおかあさん
第2話ジェノバの少年マルコ
第3話日曜日の港町
第4話おとうさんなんか大きらい
第5話なかよしエミリオ
第6話マルコの月給日 
第7話屋根の上の小さな海 
第8話ゆかいなペッピーノ一座
第9話ごめんなさいおとうさん
第10話かあさんのブエノスアイレス
第11話おかあさんの手紙 
第12話ひこう船のとぶ日
第13話さよならフィオリーナ
第14話マルコの決意
第15話すすめフォルゴーレ号
第16話ちいさなコック長
第17話赤道まつり
第18話リオの移民船
第19話かがやく南十字星
第20話おおあらしの夜
第21話ラプラタ川は銀の川
第22話かあさんのいる街
第23話もうひとりのかあさん 
第24話待っててくれたフィオリーナ
第25話ペッピーノ一座大あたり
第26話草原へ
第27話フィオリーナの涙
第28話バルボーサ牧場
第29話雪がふる
第30話老ガウチョ カルロス
第31話ながい夜
第32話さようならといえたら
第33話かあさんがいない
第34話ジェノバに帰りたい
第35話おかあさんのなつかしい文字
第36話さようならバイアブランカ
第37話はてしない旅へ
第38話かあさんだってつらいのに
第39話ばら色のよあけロサリオ
第40話かがやくイタリアの星一つ
第41話かあさんと帰れたら
第42話新しい友だちパブロ
第43話この街のどこかに
第44話フアナをたすけたい
第45話はるかな北へ
第46話牛車の旅
第47話あの山の麓にかあさんが
第48話ロバよ死なないで
第49話かあさんが呼んでいる
第50話走れマルコ!
第51話とうとうかあさんに
第52話かあさんとジェノバへ

 ※ 第19話は回想シーンでの登場のみ
 ※ 第47話はマルコの夢の中で、旅の途中に出会った人々の1人として描かれるのみ

 ちなみに、第1話でフィオリーナらしき少女が登場するが、第1話と第2話以降とでは1年の間が空いているので、これはフィオリーナではない。たまたまジェノバにいたのではないかと思われるかもしれないが、ペッピーノ一座がジェノバに初見参するのは第4話なのである。

 第4話「おとうさんなんか大きらい」より

 第1話に現れる「どう見てもフィオリーナのような少女」は、これからこんな女の子が物語を彩ることになりますので退屈しないで少し待っててね、という予告であったように思う。(←この解釈が間違ってる可能性は十分にあります。いつものように、ろくすっぽ調べもせずに書いてます。)



 サブタイトルに「フィオリーナ」の文字がある回は3話もある。『母をたずねて三千里』は、マルコとフィオリーナの物語なのだ。であるにもかかわらず後半出てこなくなる。 
 この意味を考えることが、大人たちへの挑戦状となっているのである(笑)。
 『アルプスの少女ハイジ』の明確なソナタ形式でもなく、『男はつらいよ』の無限ロンド形式でもない。
 何故、このような形にしたのだろう。

 マルコの旅は、ペッピーノ一座と別れた後、いよいよ苛酷なものとなっていく。ペッピーノ一座と一緒だったから何だかほのぼのと安心したような気持ちで視聴者も見ていられたのが、次第に本格的に厳しい『母をたずねて』の世界に突入していくわけである。
 その厳しさを際立たせるためにフィオリーナをもう出さなくなった、と考えるのは容易いが、そういう理由だけなのだろうか?

 第40話においてマルコは「乞食」呼ばわりされ、(その場面と直接つながるわけではないが、)他愛のない善意の気持ちでお金を渡そうとする親子からマルコは逃げ出してしまう。
 図らずもこのシーンは、第11話でマルコがフィオリーナから「私、乞食じゃない」と言われる場面への残酷な意趣返しとなっているのであるが、この時マルコはそんなふうに考えようとはしない。フィオリーナのことを思い出そうとしないのである。

 その後、ついにマルコは死の危機に瀕するまでに至るが、そこでさえフィオリーナに思いを馳せるわけでもない。フィオリーナのことは忘れてしまっているのだ!
 旅の途中の単なるただの通りすがりだったのだろうか、フィオリーナは?? それではあまりにも切なすぎるではないか。


 『母をたずねて三千里』は、「同じ人との別れと出会い」の物語なのだ。出会いと別れを何度も繰り返す。でも、次に会うまでその人からは「きっかり離れる」という大人のドラマなのだ。
 上の表をよく見てみると、ジェノバにいる間にマルコとフィオリーナは一度別れている。
 そして旅の途中で再会を果たし、再び別れる。。
 
 第32話。フィオリーナが、明日には訪れるかもしれないマルコとの別れを「宿命」として受け止めようとしているのに対し、ペッピーノは何かイイ感じの事を言おうとするけど、コンチェッタに窘められてしまう。
 この場面が好きだなあ。

「人生は別れが全てさ」


 ペッピーノ。決して悪党ではないが、それほど善良でもない。強がったり弱気になったり、かなり問題ある言動で周囲を惑わせるにもかかわらず、イザという時は頼りになる大人だ。生き方は下手でもあり上手でもある。
 まるで「人間図鑑」といえるほど『母をたずねて三千里』には様々な人々が登場するが、今改めて鑑賞すると、ペッピーノこそ最も魅力的な人物であることに気づく。寅さんに憧れるのと似たような意味で、ペッピーノに惚れてしまう。

 「人生は別れが全て。」ペッピーノの言う通りなのかもしれない。大人の言葉だ。
 この言葉をあたかも実践するかのようにマルコは旅の途中で何人もの人々との間で出会いと別れを繰り返し、ついにはフィオリーナとも別れてそのままになるのである。
 後半に青色の消えた物語全体の構成は、異形ではあるもののちゃんと調和が取れているのだ。儚くも絶妙な。。
 なんということだろう。大人のための作品だったのだ、『母をたずねて三千里』は。


 第32話の上のシーンの前に、フィオリーナから発せられる次の台詞も極めて印象的。


 とても子どもの言葉と思えない、重い問いかけである。
 この言葉に対する物語上の着地点は示されておらず、敢えて示さないまま物語を閉じてるようにも思える。どう着地させるかは大人たちで考えなさいと。だがこれはほんの一例に過ぎない。
 大人たちへの問いかけだらけの作品なのだ、『母をたずねて三千里』は。

 マルコがもしフィオリーナを忘れるようなことになっても(そんなことはねーだろうけど)、我々が見守っていくことにしよう。
 ラナでもクラリスでもシータでもない、人形つかいの上手な、青色の服を着たやさしい少女を。いつまでも何度でも、見届けていこう。






「きっとまた会おうね」


 


 


 最終話において、マルコとフィオリーナはまるで導かれるようにめぐりあい、そこでまた別れることとなる。

 ちなみに、この最終話の絵コンテは富野由悠季(当時は「喜幸」と表記)が担当してるけど、実に美しい。奇跡の最終回である。

 第52話「かあさんとジェノバへ」より

マルコとフィオリーナ


 この画面の構図は、映画『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙編』にも現れるが、こんなことはもう語り尽くされているのだろうか。。

シャアとセイラ


 富野氏は『母をたずねて三千里』全52話中、22話もの絵コンテを担当している。
 ほかにも『ファーストガンダム』的な要素がないか探したんだけど、私の力では見つけられなかった。

 唯一、これはどうかと思ったのが第6話。

 第6話「マルコの月給日」より
 マルコの悪夢は、ランバ・ラルの自決シーンを思い起こさせる。(絵コンテ:富野喜幸)

こじつけ


 つまんねー。いったい何がしたいんだ私は、