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九鬼周造『「いき」の構造』によると、「いき」とは「運命によって〈諦め〉を得た〈媚態〉が〈意気地〉の自由に生きる」ということなんだって。
媚態 意気地 諦め NHK大河ドラマ『べらぼう』から、その三要素が揃ってる「いき」な場面を見つけてみましょうというブログでございます。まあ、本気にしないでご覧ください。

・『シン・ゴジラ』のようなテロップの連打で登場人物が次々と紹介される。これは「いき」だねえ。でも〈媚態〉も〈意気地〉も〈諦め〉もない。残念。人物が多すぎて誰が誰やら分からないよ。何度も繰り返し見ろっていうドラマなのね。
・朝顔姐さん。蔦重から届けてもらった台の物を、自分で食べず腹を空かしてるほかの女郎に上げてしまう。これは「いき」だねえ。〈諦め〉による〈意気地〉からの振る舞いと言えよう。だが〈媚態〉がない。残念。朝顔姐さんは死んでしまう。生きてりゃこその「いき」であったか。。
・蔦重の回想シーンでの朝顔姐さんの「考えてもどうせ真相の分からないことについては、前向きな楽しい想像をしましょう」という考え方。これは「いき」だねえ。でも〈意気地〉はあるが〈諦め〉がない。むしろ逆に、諦めないということである。しかも〈媚態〉もない。残念。。
・蔦重は田沼意次に河岸女郎の窮状を訴えるが、「正すべきは、女郎屋たちの不当に高い取り分ではないのか」と返されてしまう。対する蔦重は「それは・・・」と言い淀むしかない。その問題にまで踏み込むつもりは毛頭ないのだ。育ての親への忠義は聖域なのである。その上でどうしていくかというのがドラマの出発点なわけ。「いき」だねえ。でも〈媚態〉がない。残念、

・蔦重は「松の井花魁」「うつせみ花魁」などと本人に対してそれぞれ呼ぶのに対し、花の井だけは「花魁」としか呼ばない。これこそは「いき」だねえ。あ、でも〈媚態〉はないことになってるのか。残念、、
・セリフの中に禿たちの名前も入れて、さりげなく紹介してるのが「いき」だねえ。って〈媚態〉も〈意気地〉も〈諦め〉もない。残念、
・平賀源内は蔦重から細見の序を書いてくれと頼まれるが、乗り気でない。「さっきのお侍(平沢常富)とかどうよ。けっこう筆立つよ。」と薦めるが、蔦重は聞き流してしまう。源内だからこそ蔦重は頼みたいのだ。あるいは、また冗談だろうと思ってしまったのかもしれない。しかし、源内の言葉は嘘ではなく、この場面は誰も気がつかないような重要な伏線が張られているのだ。実に「いき」だねえ。でも〈媚態〉も〈意気地〉も〈諦め〉もない。残念、
・源内が蔦重に迫る場面のBGMは「いき」だよねえ。って全然カンケーない。残念、
ところで『「いき」の構造』では、媚態の対象ってのは〈異性〉に限定されている。まあ、源内のような男色家=同性愛という発想のない状態で書かれてるだろうけど(あるいは触れるまでもなく拒絶されてるのかな?)。ってか〈異性〉という言葉が必要以上に出てくるような気がしないでもない。安田武 多田道太郎『「いきの構造」を読む』においても、〈媚態〉という言葉の意味について男女関係の枠にこだわらずに考えようという思想が全く見られない。現代で「いき」を語る場合には〈媚態〉って、露骨な同性愛じゃなくても異性との間のものに限定せず、もう少し幅広い意味での〈セクシー〉みたいなニュアンスで捉えるべきなのではないだろうか、とどうしても思ってしまう。
・九郎助稲荷で蔦重は「花の井」と名を呼ぶ。いつもの「花魁」ではなく。この場面は「いき」だねえ。。
・小泉忠五郎を実にさりげなく紹介してるのは「いき」だねえ。って全然カンケーない、

・花の井が自室で読んでいるのは『塩売文太物語』。この本にまつわる幼い頃の蔦重とのエピソードは後の回で語られる。視聴者に対する仕掛けが「いき」だねえ。って全然カンケーない、
・次郎兵衛が2回鼻血を出すってえのが「いき」だねえ。って全然カンケーない、
・出来上がった吉原細見『一目千本』を開いた河岸見世の女将が「なんだかめっぽう粋じゃないか」と感想を述べるのは「いき」だねえ。ジェームス小野田をして「こりゃあすごい。粋だねえ。」と語らせるほど「いき」なのである。ついでに言うと、この場面の唐丸の笑顔がまたイイねえ。もう一つついでに言うと、これだけの重要人物なのに出演者クレジットの上で唐丸は禿たちと同列ってえのが、なんだか「いき」だねえ。って全然カンケーない、
細見『一目千本』を「いき」とするこれらのシーン。おそらく「こじゃれてる」「スマートなユーモア」みたいな意が含まれてるように感じる。九鬼周造も『「いき」の構造』の中で例えば「esprit」には触れているが、話を広げようとはしない。〈しゃれ〉の要素って大きいと思うんだけどなあ、「いき」にとって。
・扇屋が高橋克実に、ホントは蔦重がかわいいんだろ、みたいなことを言うのを女将がそっと聞いてるっていうのが実に「いき」だねえ。そしてこの場面、高橋克実に扇屋があたかも諭すかのように言ってるってのがこれまた「いき」だよねえ。って、やっぱり〈媚態〉は関係ない。残念、
というか、やっぱ〈媚態〉って性的関係じゃない男同士では成り立たないのだろうか。異性同士でない〈不安定な緊張関係〉ではダメなのかなあ。言葉の矛盾になっちまうのか??
・花の井が蔦重との会話の中で、長谷川平蔵を「50両で吉原の河岸救った男なんて、粋の極みじゃないかい」と評する。確かに。〈媚態〉〈意気地〉〈諦め〉三拍子そろってる。これぞ本当の「いき」だねえ。

・猫がさりげない(さりげなくもないか)伏線になってるのが「いき」だねえ。って全然カンケーない、
・源内が徳川吉宗の文書に細工をしてるところへ蔦重が来てしまう。源内は巧みにごまかそうとするが、この場面、一見しただけでは視聴者は何のこっちゃか分からない。こりゃ「いき」だねえ。って全然カンケーない、
・激高する蔦重だが、高橋克実「吉原のためだ」のたった一言で折れる。「いき」だねえ。だが〈媚態〉がない。残念、
よく考えると、西村屋が加わらなかったら呉服屋達からの入銀は得られなかったのだから、蔦重は何もかも一人でやったわけではないのだ。とは言え・・・、

・向こう傷の男が持っていた蔦屋の貸本は、蔦重の言う通り、男が最初に店へ来た時に持ち帰ったものである。蔦重は嘘を言ったのではない。が、たまたま真実を語ったことになっただけだ。このスリリングさは「いき」だねえ。って全然カンケーない、
・蔦重は花の井に、唐丸が記憶喪失を装ってる事に薄々気づいてた、と言う。そんな描写などなかったので、蔦重のこの発言は視聴者を戸惑わせるが、同時に極めて「いき」である。しかし〈媚態〉がないか。残念、、
NHKのガイドブックのストーリーダイジェストによると、第3話で蔦重が唐丸に記憶が戻ったのかと聞くものの唐丸はお茶を濁してしまうシーン、第4話で蔦重が唐丸の記憶喪失を訝しむシーンがあることになっている。が、実際にはそのようなシーンはない。おそらく脚本上は存在し、実際に撮影も行われたのかもしれないが、編集の段階で敢えて削っている可能性がある。結果的にこれで良いと思う。視聴者からすればいい塩梅にミステリー色が深まる。
・花の井が蔦重に言う「まことの事が分からないなら、できるだけ楽しい事を考える」は、朝顔姐さんから引き継いだ「流儀」である。この場面で生かすとは「いき」だねえ。あーでも〈諦め〉があるのかないのか、よく分からないよ、

・将軍・家治と田沼意次が将棋を指しながら日光社参について意見交換する場面。「いき」だねえ。って〈媚態〉も〈意気地〉も〈諦め〉もない。残念、
この回が放送されたと同じ日のEテレ『将棋フォーカス』によると、この場面、互いの指し手が両者の心情を表してるということのようなんだけど、そんな所まで気がつかないよ。ってか、将棋としての局面と指し手自体がちょっと高度すぎて理解が追いつかないってば、
というか、今回は(毎回そうだけど)密度が濃くて一度見ただけでは理解不能な箇所が多く、何度か見てようやくああそういうことかと分かるような仕組みになっている。「いき」だねえ。って全然カンケーない、
・家治が意次に「このままではいずれ彼奴(家基)が舵を握ったとき、田沼一派は真っ先に廃されるぞ」と小声で忠告するのは、家治なりの憂苦・配慮・温情が表されてる「いき」な場面だねえ。って、これはムリがあるか、
・田沼意知は父・意次に旗本が持ってきた家系図を見てもらおうとするが、意次は「由緒など要らん」と池へ放り投げてしまう。「いき」だねえ。って全然「いき」じゃない。
「由緒」という言葉は、第五回で意次と源内との会話の中に否定的・皮肉な意味で使われていた。この展開につながるんだねえ。。
・長谷川平蔵が蔦重に「世の中、そんなもんだ」と言うシーン。風で砂埃が舞い上がって、黒澤の『用心棒』みたいだ。蔦重の心象を表している。見事なまでに「いき」だねえ。ってやっぱり〈媚態〉がない。残念、
もう、第3回の扇屋と高橋克実の会話といい、〈媚態〉の定義を変えるしかないんじゃないの、

・泉谷しげるみたいに見える西村屋が「いき」だねえ。って全然カンケーない、
・忘八の皆さんへの蔦重のスピーチは「いき」だねえ。ちゃんと「心意気」っていう言葉も入ってる。〈媚態〉は勘弁してくださいよ。あ〈諦め〉もないかも。残念、、
・松葉屋が花の井に「ひとつ俺たちも考えてみるかい」と投げかける場面は「いき」だねえ。カッコいい。感動的ですらある。でも〈諦め〉がないか。残念、、

・モロボシダンのように見える里見浩太朗が「いき」だねえ。って全然カンケーない、
・鳥山検校は「いき」だねえ。たぶんこういうのが「いき」なんだろうね悔しいけど。
・ラストシーン。風間俊介を階段から突き落とし啖呵を切る高橋克実は実に痛快で、なおかつ「いき」だねえ。ってそういう問題ではない、
第七回の地本問屋会所の描写によると、風間俊介の言ってる事は全てがでっち上げではなく、吉原者を吉原者というだけで忌み嫌ってる地本問屋は実際にいる。とは言え、ここまで蔑めば忘八の皆さんでなくても憤慨するのは当然。風間俊介は、蔦重と忘八の皆さんが結託したという事を知らず、険悪な仲が続いていると思ってたのですね。

・サブタイトルは、第四回の唐丸のセリフ「地獄のようだね、女郎屋の仕組みって」と結びついてるのが「いき」だねえ。って全然「いき」じゃねえ、
・九郎助稲荷のシーン。蔦重と瀬川はまず直角に背中合わせで腰を下ろす。「いき」だねえ。
『「いきの構造」を読む』でも安田武が媚態の要について、「背中合せになるという形で具象化されるものと重なり得る」と述べている。「できるだけ接近しながら、その距離が埋まらないことが「いき」なんだ」と。「だから背中合せ。」と。まあ、言わんとしてる事は何となく分かる。
・一方、シーンが進むと蔦重と瀬川は向かい合わせになっていよいよ接近する。こうなると理論上「いき」ではなくなる、ということになるのだろうか。はて、その境界ってどこなのでしょうね。。
・貸本に挟んだメモを通して、蔦重と瀬川はコミュニケーションを取る。これはたぶん「いき」だねえ。誰かに見破られてしまうスリリングさが〈媚態〉を一層際立たせる。←何書いてんの、
・鳥山検校は松葉屋の女将の嘘を見破り、さらに女将をフォローしようとする主人の嘘もおそらく見破ったものと思われるが、騙されたフリをすることにより(騙されたフリですらないのかな)その場を丸く収めようとする。これは「いき」だねえ。たぶんこういうのが「いき」なんだろうね悔しいけど。
・しかしながら松葉屋の主人は、蔦重を訝しむ高橋克実に対し、「まだうちに任せておくれ。どうしようもなくなったら頼むからよ。」と彼なりになるべく大事にならないようにする。この箇所は個人的に「いき」だと思いたい(笑)。
・瀬川「馬鹿らしくて、面白かったって言ってんだよ」のシーンこそは「いき」の極みだねえ。でも、こういう状況の中の男女においても「いき」である部分と「いき」じゃなくなる部分との境目ってのが、果たしてあるのだろうか。あるとすれば瞬間的に飛び越えるのかな。それとも、ジワジワ越えるのかな。←何これ

・居酒屋で源内と里見浩太朗に促され、蔦重は自分の「やりたい事」を言語化する。最初「笑われるから言えない」と恥ずかしがるのだが、源内と里見浩太朗は笑うどころか、真剣に聞く。これは「いき」だねえ。って〈媚態〉も〈諦め〉もない。残念。いや違う。「意気」だけで十分「いき」だぜ。
・女郎の絵本を作って将軍に献上しようという蔦重のアイデアに対し、高橋克実はポンと50両出す。これは「いき」だねえ。だが〈媚態〉がない。おそらく〈諦め〉もない。残念、、
・蔦重は松葉屋に、出来上がった『青楼美人合姿鏡』を瀬川に渡してくれるよう頼むが、松葉屋はさらり「忙しいから自分で渡しておくれよ」と言う。蔦重と瀬川に最後の2人きりの語らいの機会を与えたわけだ。これは「いき」だねえ。松葉屋は、第九回での出来事をきれいさっぱり水に流してるということ。カッコいい。
・蔦重は、『青楼美人合姿鏡』に載せる瀬川の絵は本を読んでいる姿にした。「それが一番お前らしい姿だと思ってよ。」これこそは「いき」の極みだねえ。三拍子そろっている。
・花嫁衣裳での瀬川、最後の花魁道中。見物してる群衆は、瀬川!瀬川!との掛け声で送り出してやる。これは本物の「いき」だねえ。見物人の中からも「粋だねえ」との声が漏れる。
・「俺はこの夢から覚めるつもりは、毛筋ほどもねえや!」と蔦重。実に「いき」だねえ。『「いき」の構造』によれば、「意気」が原本的意味において「生きる」ということなんだって。
・女郎絵本『青楼美人合姿鏡』を宣伝する蔦重。花魁道中に集った人々から「粋だねえ」の声。だが、実際に本の中身を見ないで「粋だねえ」と言うのはちょっと早いような気もしないでもない。

・里見浩太朗が蔦重に「一回ぐらいの躓きで、しょげることはねえじゃねえか」とサラリ慰める。これは「いき」だねえ。って〈媚態〉も〈諦め〉もない。残念。・・でも今回の話は、富本節の詞に出てくる「男ぶり」がテーマだから、やっぱり「いき」だよね。
・新之助とうつせみの出来事について、源内は知ってか知らずか触れようとしない。これは「いき」だねえ。知らないってことはないだろうから、野暮は言わないようにしているものと思いたい。
・鳥山検校に会いに行った蔦重と大文字屋だが、瀬以に迷惑が及びかねないと察すると、蔦重はあっさり引き下がる。これは「いき」な振る舞いだねえ。
・安達祐実が若木屋の代わりに太夫と門之助に謝罪する。これは「いき」だねえ。
蔦重は今回、全編を通し安達祐実と大文字屋とのチーム戦で成果を上げているのが実に痛快。蔦重の一途さが皆を動かしてゆく。
安達祐実の「男の嫉妬」という台詞もまた今回のキーワードとなっているのが洒落ている。
・太夫と門之助は、蔦重の頼みを男気で引き受ける。これは「いき」だねえ。太夫が鱗形屋に述べる言葉もまた「いき」だねえ。
・恋川春町は、藩の家老が鱗形屋一人に罪をかぶせてしまった事に対する義侠心から、鱗形屋の力になろうとする。これはまた「いき」だねえ。
鱗形屋は同じような「男気」により、太夫にはフラれ、恋川春町には助けられるということ。普通ならこういった役どころは主人公サイドの人物が担うはずだと思うが、突き落とされ、直後に救われるのが鱗形屋であるというのがドラマに奥行きを含ませている。鱗形屋は恋川春町に本当に感謝し、決して「しめしめ」などとは思っていない。恋川春町もまた本当に申し訳ないと思っている。非常に味のあるシーンだ。見応えがある。

・これだけ台詞がちゃんとあるのに、出演者クレジット上の文字が小さい園田祥太は「いき」だねえ。って全然カンケーない。
・留守居役だから吉原へ来るのも仕事のうちなのに、自腹を切ってまで通いつめる平沢常富は「いき」だねえ(笑)。
・祭りの最終日、大文字屋と若木屋は共に祭りを盛り上げた同志として不器用ながらも互いに称え合い、一緒になって踊る。これは「いき」だねえ。双方、吉原を活気づかせたい気持ちは同じ。どうせまたすぐ仲違いするんだろうけど、祭りの本質というものを突いた場面である。
「まんがで読破」シリーズ(イースト・プレス)の『「いき」の構造』にも、原典にはない神輿合戦のくだりが出てくる。祭りと「いき」は結びつけやすいのだと思う。
・花魁たちをも祭りに繰り出させる林家三平は「いき」だねえ。これって「いき」ですよね。
・うつせみの背中を文字通り押す松の井こそは、「いき」の極みだねえ。
この時の、松の井の言葉「お幸せに」は、第九回のうつせみ「ただ、幸せになりたくて・・・」という台詞へのアンサーとなっているのが、また「いき」だねえ。。
・今回「どうだろうまあ」と三度発する平沢常富は「いき」だねえ。って全然カンケーない。

・男前っぷりに自信のあり過ぎる長谷川平蔵は実に「いき」だねえ。って全然カンケーない。
・徳川家基が爪を噛む音は、冒頭の次郎兵衛がビードロを鳴らす音とリンクしている。これは「いき」だねえ。って全然カンケーない。
(『「いき」の構造』では、“音”についての考察は行われておらず、“音楽”についても最後の方でわずかに触れられているのみである。この点に関しては『「いきの構造」を読む』においても批判的に述べられている。「日本音楽のなかの『いき』とは何かってことが、はっきり九鬼さんの意見として出ていない。」と。)
・蔦重は、鳥山検校の従者が迎えに来たのに対し、ただ事ではないことが起きているのを察しながらも、仔細は訊かず黙ってついて行く。これは「いき」だねえ。〈諦め〉と〈意気地〉が千々に乱れた心境だろうか。。〈媚態〉はもう、なくても構わないんじゃないの。
鳥山検校の屋敷に到着すると、偶然にも高利貸しに係るガサ入れが行なわれている最中であった。蔦重はもうナンノコッチャか分からないハズであるが、何かを覚悟した表情のようにも見える。これもまた「いき」だねえ。「いき」ですよね。
