『僕の贈りもの』~『We are』まで


     ☆ルール:曲の入れ替えは各アルバムにつき1対だけ




 We are


   A-1 時に愛は
   A-2 僕等の時代
   A-3 おまえもひとり
   A-4 あなたより大切なこと
   A-5 いくつもの星の下で

   B-1 一億の夜を越えて
   B-2 せつなくて
   B-3 Yes-No
   B-4 私の願い
   B-5 きかせて



 A-1はこの曲しかない。A-5、B-1も定位置でキマリ。曲順など動かす余地はない。てか、変える必要など最初から全くない。以前、高橋幸宏のアルバムについてブログを作った際は、変えてみたい必要性を私自身が本当に感じてたのだが、オフコースのアルバムは曲順までしっかり考え抜かれている(いや、幸宏もそうだけど)。全てのアルバムがそうだ。ただ今回、オフコースのアルバムについて少し語ってみたいという気を起こしたんだけど、オフコースをあまり知らないし(笑)、音楽について語る力量とかを持ち合わせていないので、手法として曲順イジリをしてみようと。そういうことです。

 B-3からの3曲の流れが素晴らしく魅惑的で、このアルバムの特徴を決定づけている。ヒット曲をB面の真ん中に据えると、全体がすごく豪華になるよね。って、そういう問題ではなく。「Yes-No」でアルバムを一旦終えて、アンコール的に「私の願い」があり、余韻として「きかせて」が奏されるという劇的効果があるのだ。
 これは、当時のコンサートのセットリストと大いに関係している。アルバムと連動したコンサートツアーであり、実際にこの3曲の流れで本編の幕を閉じたのだ。ラジオでも放送されたので、私も録音し、繰り返し聴きました。「Yes-No」で最高潮に盛り上げ、「私の願い」で締め、有無を言わさず「きかせて」で強制終了。そんなような印象があります。(コンサートではこの後、‶本当の″ アンコールが演奏されました。)アルバムを再現したコンサート、ではなく、コンサートのように作られた最初からアルバムだったのだ。(そのように作られるアルバムってのは、オフコースに限らず多いでしょうが。)したがって、曲順を動かすなんてなおさら難しい。
 例えば、B-3とB-4を入れ替えても収まりは良いように見えるかもしれないが、物語性が崩れ、素っ気なさが漂うこととなる。「私の願い」はラストに近い方が良いことに気づく。この3曲の流れはもう固定なのだ。

 本当は「僕等の時代」という曲がオールマイティーで、アルバムのどの位置でも通用する。(件のコンサートではアンコールに用いられたし。)必ずしもA-2じゃなくてもいいんじゃないかと。ビートルズの「エリナー・リグビー」は必ずしも『リボルバー』のA-2でなくても構わないのと似てると思う。そんなこと言ったら世界中のA-2は同じじゃん!となるかもしれないが、「ノルウェーの森」は『ラバー・ソウル』の必ずA-2でなければならない!ですよね。
 さっそく話がとっちらかってますが、「僕等の時代」です。A-5に置いてもB-1に置いても大丈夫だ。だが、入れ替えられた側の「いくつもの星の下で」や「一億の夜を越えて」がA-2ってのはあり得ない。全体がズッコケてしまう。
 それこそ、A-1に置くことも可能だ、「僕等の時代」を。アルバム全体の序曲として「時に愛は」と入れ替える。そうすれば「時に愛は」がさらに引き立つ!
 いや、引き立たない。「時に愛は」のイントロの冒頭の1音は、1音なのか数音なのか譜面がどうなってるか分からないが、アルバムの冒頭だからこそ意義があるのだ。それに「僕等の時代」の側も、冒頭のギターの伴奏がない完全なア・カペラならまだ良かったかもしれないが、さすがにA-1では違和感がある。
 となると、「僕等の時代」とA-3またはA-4を入れ替えてみるというのも手だが。実際にその順で聴いてみると、まああり得なくはないのかもしれないが、「おまえもひとり」がA-2だと詞が厳しすぎるし、「あなたより大切なこと」がA-2だとアルバムが軽くなっちゃう感じで、いずれにしても「時に愛は」との対比が急激になり過ぎてしまう。てか、なんかつまんないよね、ブログとして(笑)。

 何かうまい組み合わせはないかと考え、ひねり出した。不動の定位置であるはずのA-5とB-1を入れ替えるのだ。「一億の夜を越えて」をA面のラストにして、「いくつもの星の下で」をB面のアタマに持ってくるわけ。どう?ダメ?
 「いくつもの星の下で」って、このアルバムの中だけじゃなくオフコース全体の中で最重要曲だと私は思っているけど、バラードがA面ラストなのはフツーでありふれてる。して、「一億の夜を越えて」がB面アタマってのも、なんか恥ずかしい。いや失礼。曲自体は恥ずかしくないんだよ。でも、ロックっぽいこともできるんですよホラホラ見て、とB面アタマに存するということが、ちと恥ずかしいのだ。当時から思っていた。
 入れ替えれば万事解決する。「あなたより大切なこと」で快調さの肩慣らしをした上で、「一億の夜を越えて」でブッ飛ばしてA面を終えるわけ。これは盛り上がるよ。して、B面はしっとりと「いくつもの星の下で」で始まるわけよ。そうすると、ここが大事、B面の物語性がさらに増すのよ。すごいでしょ。
 これでキマリ!




Three and Two


   A-1 思いのままに
   A-2 恋を抱きしめよう
   A-3 その時はじめて
   A-4 歴史は夜つくられる
   A-5 愛を止めないで

   B-1 SAVE THE LOVE
   B-2 汐風のなかで
   B-3 愛あるところへ
   B-4 生まれ来る子供たちのために
      ~「いつもいつも」



 どうして逆の順番に書き進めているかというと、「さよなら」でオフコースに関心を持ち、当時の最新アルバムからさかのぼって聴いていった人がけっこう多いのではないかと思うからだ。‶当時の最新アルバム″ とは『Three and Two』。オフコースの人気を決定づけた。(「さよなら」はオリジナル・アルバムには収められていない。)

 とにかく1曲目の「思いのままに」に誰もがノックアウトさせられたわけよ。小田和正の濁りない歌声にこれまた重厚ながらも美しい〈昨日も 明日も♪〉というコーラスが絡みつく。こんな音楽は誰も聴いたことがない! しかも、この〈昨日も 明日も〉という言葉は、アルバム最後に置かれている「いつもいつも」と対応していることに、我々は後になって初めて気づくという仕掛けになっているのである。高度な循環形式なのだ。
 ところが、A-3の「その時はじめて」で早くもシンドクなってくる(笑)。〈月曜の朝 いつものように 君がでてゆく〉っていうあの歌よ。いや、小田和正が悪いのではない。こういう憂鬱気な曲調の歌を、まだアルバムが若いA-3という場所に配置されているからキツイのだ。シンドイとかキツイとか、すみません。。
 アルバムのその後の流れは調子が良い。ということは、A-3をちょっと後ろの方へ動かしたい。メランコリックな曲はどこへ置いてもメランコリックだろうが。でも、アルバムが終わろうとする時に感じるメランコリーとちょうど重なるとしたら、それはそれでいいじゃない(笑)。さて、何と入れ替えようか。

 1つずつ試してみよう。まず、A-4「歴史は夜つくられる」とチェンジ。そうすると「その時はじめて」⇒「愛を止めないで」と、まるで映画のようなストーリー性が醸し出されてくる。素晴らしい。もうこれでキマリ、と思いきや、こっちの方はこれで構わないが、片や「恋を抱きしめよう」⇒「歴史は夜つくられる」と、たまたま似たような感じの曲が並んでしまうこととなり、いただけない。
 では「愛を止めないで」と入れ替えるとどうなるだろう。「その時はじめて」がA面ラストになるわけだ。
 この『Three and Two』というアルバムの肝は、「愛を止めないで」がA-5に置かれているという点にあると思っている。それがアルバムとしての格調、風格、気品を生んでいるのだ。もったいぶらずA-3に配置すれば、確かに華やかさは増し、アルバムもさらに売れただろう(笑)。しかしそうすると、露骨に鈴木ヤスのA-2、A-4が引き立て役にとどまることとなってしまう。ふむ、A-3「その時はじめて」の憂いを緩和させるために、A-2、A-4は両側からわざと陽気にふるまってくれているのである。それが「愛を止めないで」に取って代わられ、ええかっこしいされたら堪ったもんじゃない。聴き手も戸惑う。
 B-1は長大な作品であり、この位置以外あり得ない。
 B-2は事実上、B-1の余韻として捉えるべきものであり、B-1とセット。動かせない。「SAVE THE LOVE」の次に「その時はじめて」が続いたら一気に白けてしまう。
 B-3も、これまた良い歌で、一見アルバムの前の方へ持ってきても支障ないように思えるが、この曲はアルバムを綺麗に収束させるためのものなのだ。それによく考えると、そもそも「その時はじめて」をB面に置いたのでは、B面がやたら重たくなってしまうのであった(爆笑)。
 B-4も定位置だし。。 

 やーどうやっても無理がある。オフコースのアルバムは曲順が計算され尽くされている。ここまで言及すると収拾つかなくなるが、イントロの塩梅や編曲なども曲順に応じた作りになっているのだろう。私の出る幕など最初からないのだ。

 と、ここで諦めてしまってはブログとして面白くない。何かひねり出さないと。
 A-3「その時はじめて」が必要以上に憂鬱に感じるのは、「思いのままに」との対比に由来するのだ。どう、この考え?ダメ?
 あまりにも最高最強の楽曲をA-1に据えてしまったため、A-3で再び小田和正の声が聞こえてきた時、いやもう不可能でしょ、さっきのを超えるのは、と我々は思ってしまうのである。
 逆転の発想で「思いのままに」の方を後ろに持ってきてはどうか。この手があった!
 とは言え、入れ替えできる曲があるのかA-1に。単に「その時はじめて」では絶対ムリだし、「愛を止めないで」は意外にA-1向きではない。
 ここで先ほど ‶アルバムを綺麗に収束させるため″ のはずであったB-3「愛あるところへ」が光り輝いてくる。ラスト前に置かれていれば、アルバムを締めるための曲であるが、A-1に置けばいかにもオフコースのアルバム冒頭を飾るにふさわしい落ち着いた楽曲となる(笑)。これだ!
 うん、大丈夫、しっくりくる。「思いのままに」もラスト前に置けば、なんというか説得力が湧いてくる。アルバム全体が複雑な重層構造となり、最後まで聴き通す喜びが深まるではないか。
 しかしこの場合、〈君は君の歌 うたえ〉の〈君〉とは、なんだか鈴木ヤスのことを指してるような感じになる気がする、などという余計なことは書かないっ。てか、それでもかまわねーだろうけど、




FAIRWAY


   A-1 あなたのすべて
   A-2 美しい思い出に
   A-3 いつもふたり
   A-4 夢
   A-5 この空にはばたく前に

   B-1 夏の終り
   B-2 季節は流れて
   B-3 失恋のすすめ
   B-4 去っていった友へ
      ― T氏に捧げる ―
   B-5 心さみしい人よ



 『Three and Two』までのオフコースを逆から順に全部聴いてやるぞーと意思を固めても、さっそく頓挫することとなる。地味だからだ、このアルバムは。派手さに欠ける、というより地味。←同じ意味だよ。そりゃ後のオフコースと比べりゃそうなってしまう。
 A-1はシングル曲でもあるが、私だけかな、この清水仁によるベースのイントロを聴くと、RCサクセション「あの娘のレター」を思い出す。A-5の木琴を聴くと、デヴィッド・ボウイ『トゥナイト』の冒頭の曲を思い出す。(どちらもオフコースの方が先に作られてるが。)私の感覚がおかしいんだろうな、ムーンライダーズの匂いも感じる。つまり、すっきりと洗練されているという意味。
 よく知られている曲といえば、B-2「季節は流れて」、B-5「心さみしい人よ」辺りだろうか。どちらもライブでよく演奏されたから。「季節は流れて」ってどんな歌だか知らないという人でも、〈あそこを見ろよ 彼女とあいつが♪〉で始まる曲だと言えば、ああアレかと思い至るであろう。「心さみしい人よ」ってどんな歌だっけ?という人も、〈ためらうまえに飛びたつもいいさ♪〉の曲だよと言えば、ああアレね、となるだろう。
 その「季節は流れて」。好意を抱いていた女性をほかの男に取られてしまうが、季節は流れて戻ってくる、という歌だと思ってたんだけど。彼女を取られたのは、自分なのだろうか、それとも第三者なのだろうか?

 結論を急ぐと、彼女を取られたのは自分ではないのだ。取られた人物を仮にTとすると(もうこの時点でネタがバレますが)、自分がTに、お前何やってんだよ彼女が取られてしまったぜ、と言うのである。でも本当は自分も彼女のことが好きなのに。そして季節が流れ、自分は泣いた赤鬼になってTと彼女のヨリを戻す。そういう歌なのだ。‶ヨリ″ ってもともと、どの程度のものだったかは知らないが。

 この「季節は流れて」の物語を中心に据えると、ほかの9曲は全てこの物語の各場面を描いているという解釈が可能になってくる。
 A-1:Tとヨリを戻した彼女に対する自分の気持ち
 A-2:彼女を取られた時点のTの気持ち
 A-3:ヨリを戻した後のTと彼女
 A-4:現実に直面するTと彼女
 A-5:結局別れてしまうTと彼女
 B-1:Tの後悔
 B-2:(ここに至るまでの経緯)
 B-3:彼女を取られた時点でのTと自分への言い聞かせ
 B-4:後日談
 B-5:Tへのラストメッセージ、・・と見せかけた自分へのメッセージ

 〈白い服〉に包まれた女性と〈黒い服〉が似合う彼女は同一人物だったのだ。
 完璧である。ここまでうまくいくとは思わなかった(笑)。
 時系列的には、B-2(1コーラス目)⇒A-2⇒B-3⇒B-2(2コーラス目)⇒A-1⇒A-3⇒A-4⇒A-5⇒B-1⇒B-4⇒B-5 ・・となるだろうか。
 ならば、曲順もこの通りに並べればよい。シューベルトの《冬の旅》に匹敵する一大歌曲集の出来上がりである!

 いや、冗談。アーティスト側にそんな意図などない。
 このアルバムも曲順を変える必要は全然なく、ただ季節を感じながら流れてくる音楽に身をゆだね、オフコースの世界で光を浴びていればいいだけのこと。
 ムリやり変えるとすれば、A-1をもうちょい主張のある曲に入れ替えるかどうかのような気がする。
 とは言え、A-1向きなのがないんだよねえ。「夏の終り」では寂しくなっちゃうし(笑)。

 ここで伏兵が登場する。B-4だ。『Three and Two』と同じようなアイデアになるが、アルバム冒頭に持ってきても使える。やっぱりちょっと寂しい感じがしてA面全体がずいぶん翳りを帯びてしまうけど、A-2との結びつきが意外に良好だ。しかも後ろに持ってくる「あなたのすべて」も、より映える。先ほど、イントロがRCの「あの娘のレター」のようと書いたが、正にしみったれないアルバムの締めくくり感が出てくるではないか。いいねえ。
 さて、この順番で聴いていくと、ふとあることに気づく。ん?彼女とのヨリを戻されたのは、ひょっとして自分の方だったんじゃないのか?泣いた赤鬼はT氏の方だったのだ!!




JUNKTION


   A-1 INVITATION
   A-2 思い出を盗んで
   A-3 愛のきざし
   A-4 潮の香り
   A-5 秋の気配

   B-1 変わってゆく女
   B-2 あなたがいれば
   B-3 恋人よ そのままで
   B-4 HERO



 逆から書いてるにせよ、このブログはなぜ『We are』までで終わってるかというと、以降のアルバムを持っていないからです(笑)。なぜ持ってないかというと、小田和正中心になって面白くなくなってるから。オフコースは小田と鈴木が半々だからこそ面白いと思っている。たぶん、大方のオフコース・ファンも同じ考えであろう。ただ、私は当時からあまりオフコースを積極的には聴いてこなかった。好きじゃなかったからではなく、他に優先して聴きたいものが山ほどあったから。今回こうして改めてじっくりオフコースを聴いていると、いやー良いねえ鈴木ヤス(笑)。もちろん小田のことを好きじゃないわけじゃないけど、はっきり言って私は鈴木推しになりたい。だが、まだまだ全然、鈴木推しになり切れない。そんな野郎が作ってるブログです。。

 「思い出を盗んで」はA-1でも通用する(シングルのB面に使われた)作品だが、その前に「INVITATION」を置いているので、壮麗な感じがアルバム全体に漂う。こういう配列のアルバムは好きだ。A-1が良くてもA-2がつまらなければ、全体の印象が悪くなる。
 核となるのは、やはり「秋の気配」だろうか。秋の歌の傑作。今この瞬間、秋の歌で好きなのものとして思い浮かぶのは、ほかに松田聖子の「風は秋色」しかないぞ(笑)。最良の作品をA-5に配するという手法は『Three and Two』へと通ずることとなる。そういえば「秋の気配」と「愛を止めないで」って、なんとなく曲の作り方が似てるよね。テンポ感とか。テンポ感て(笑)。

 全アルバムがそうだが、このアルバムも曲順に手を加える余地などない。動かせないようにできている。いや、むしろ逆に考えるべきなのかな。曲順を変えたとしても、効果が出にくいのかもしれない。1曲1曲のオフコースを楽しむものじゃないんだよ、この時期のオフコースのアルバムってのは。全体の感じを楽しむべきものなんだよ、オフコースのアルバムは。その意味では、ジャズとかに近いんじゃないの? ジャズって曲順はあんま関係ないじゃん。←暴論!
 うむ。強いて、強いて難点を挙げるとすれば、B面が少し平坦過ぎるか。ラストが大作なので曲数が少ないから、なおさらそう感じるのかもしれない。「HERO」1曲だけで抑揚はあるんだけどね。

 そこで提案。B-2「あなたがいれば」と「秋の気配」を入れ替えるのだ。どう?ダメ? B-2に最良の曲を置くって、世の中にあんまりないけど。
 まず、「あなたがいれば」がA面ラストに来るのは、何ら違和感がない。間奏のテンポが変わる部分も、必然性がなんとなく増すんじゃないの(笑)。
 そして「秋の気配」の側も。B-2に置けばここがベストポジションのような気がしてくるからアラ不思議。しかも(ここが大事)、B-3「恋人よそのままで」との繋がりが、まるで奇跡のようにフィットする。party is over感、Wine & Roses感、アルバムがそろそろ終わりますよという到着の知らせがイイ感じで伝わるじゃないですか。
 まあ、詞の世界を見ると「秋の気配」は恋人から離れようとしてる歌なのに対し、「恋人よそのままで」は文字通りの歌だ。少しだけ年を取ってしまったけど、そのままでいてくれという。。
 結局「秋の気配」では別れたりしなかったということなのだろうか。あるいは、一度別れたんだけど、ヨリを戻したのかもしれない。(ヨリを戻すのが好きねえ。)




SONG IS LOVE


   A-1 ランナウェイ
   A-2 ピロートーク
   A-3 こころは気紛れ
   A-4 ひとりで生きてゆければ
   A-5 ひとりよがり
   A-6 青春

   B-1 めぐる季節
   B-2 おもい違い
   B-3 青空と人生と
   B-4 恋はさりげなく
   B-5 冬が来るまえに
   B-6 歌を捧げて



 12曲入りのアルバムの時代まで辿り着くと、私はうれしくなってくる。曲数の多い方がうれしい(笑)。でも、ビートルズとかの14曲入りともなると、多すぎる感じがする。12曲がちょうどいい。10曲ではもの足りないのだ。
 例えば、松山千春のアルバムは、たまたまだけど12曲⇒11曲⇒10曲とだんだん減っていってる。それだけで損してるような気持ちになったものだ。
 ついでに書けば、LPレコードが2500円から2800円になるのと同じ頃、アルバムの曲数は8曲が主流となったような時期があり、我々は絶望したものだ。たった300円だけど、LPレコードは滅多に買えなくなったなあと実感した。それだけならばまだしも曲数が減ってるから、1曲当たりの単価がすげー跳ね上がってるじゃん!

 このアルバムはオフコースの歴史全体から見たら、もしかしたら目立たない方かもしれない。しかし曲数が多いという点に意義がある(笑)。いや、(笑)じゃないって。だって、いろんなオフコースが聴けるんだよ。

 小田と鈴木が6曲ずつ。それだけで期待が高まる。理想形だ。
 A面:鈴木⇒鈴木⇒小田⇒小田⇒鈴木⇒鈴木 B面:小田⇒鈴木⇒小田⇒鈴木⇒小田⇒小田、というオーダーも完璧。素晴らしい。
 曲調は、A面:軽快⇒物憂げ⇒軽快⇒重⇒軽小⇒重 B面:中庸⇒軽快⇒重⇒物憂げ⇒激重⇒昇華、といった感じだろうか。変化と起伏に富んでいる。
 いつも、冬が来るのに合わせてアルバムを発表していたオフコース。特にこのアルバムは、冬の到来(楽しいことも辛いことも)を予感させている。 

 で、曲順をもし変えるとすると、「ピロートーク」が果たしてA-2では早すぎるんじゃないか(笑)と思うかどうかのような気がする。作家と曲調が同じであるB-4とチェンジした方がしっくりくるのではないだろうか。どうでしょう? 「青空と人生と」と「冬が来るまえに」の間に「ピロートーク」が来る方がヘンかなあ。
 ならば、「ピロートーク」をA面ラストに据えるのはどうか。「青春」と交換。そうすると、「ランナウェイ」⇒「青春」ってなるんだけど、「ランナウェイ」に〈若い青春の 思い出〉という一節があるから、何かが紛らわしくなる? いや、そんなこと以前に「ランナウェイ」が東京を離れて旅に出る歌なのに対し、「青春」は住み慣れた街を出てゆく歌だ。住み慣れた街というのが東京だとすれば、同じ内容の歌が重複することになってしまう。
 何かいい手はないか。

 逆転の発想。「ピロートーク」をA-1にしちゃえばよいのだ。ピロートークから始まるアルバム。あら不思議、意外にしっくりくるわ。しかも、その後に「ランナウェイ」が続くというのも意外に不自然さがない。っていうか「ピロートーク」を冒頭に置けば、いかにもオフコースのアルバムという感じがしてくる(笑)。

 ・・っていうか、俺がピロートークの意味を、もう後は寝るだけっていう意味に捉えようとこだわり過ぎてるのかもしれない。
 ヘンなのは俺だった、。




ワインの匂い


   A-1 雨の降る日に
   A-2 昨日への手紙
   A-3 眠れぬ夜
   A-4 倖せなんて
   A-5 ワインの匂い
   A-6 あれから君は

   B-1 憂き世に
   B-2 少年のように
   B-3 雨よ激しく
   B-4 愛の唄
   B-5 幻想
   B-6 老人のつぶやき



 「さよなら」のヒット時、よし『Three and Two』からさかのぼってオフコースのアルバムを聴いてやるぞーと決意しても、おそらく律儀に順番通りに聴く人は実質ほとんどいなかっただろう。大概の人はこのアルバムや1stの方に先に手を伸ばしただろうから。
 私自身も長い目で見ればそうだった。長い目というのは『ワインの匂い』を買ったのは就職してだいぶ経ってからのことだし、『SONG IS LOVE』~『FAIRWAY』をちゃんと聴いたのは、順番的にさらに後だったということ。
 「さよなら」の頃はどうしてたかというと、NHK-FMの「ひるの歌謡曲」やコンサートの放送などを録音して聴いていたのだ。そこで止まっていた。当時オフコースはNSPと並び称されており、したがってNSPも聴いていた(笑)。「愛のナイフ」とか。

 このアルバムの人気があった理由は、やはり「眠れぬ夜」が入っていたからだろう。1975年。今にして思えば、そんなにも昔の曲でありアルバムだったのか(笑)。1980年頃もアマチュアバンドがよくカバーしてたような印象がある。息の長かった曲だ。西城秀樹がカバーした時は驚いた。私は自慢じゃないが(本当は自慢だけど)泉谷の「眠れない夜」の方が好きだったぜ。
 「愛の唄」も主要曲。ライブでの生々しい歌声の方が好きだったが。

 曲順は、最初と最後、A-1とB-6は動かせない。固定。「幻想」もまあこの位置なんだろうな。「愛の唄」もか。このラスト3曲の並びは古めかしいと言えば古めかしい。けど1975年の時代性がずしずし伝わってくる。‶ ひしひし “ ではなく ‶ ずしずし “ だ。うん、1975年ってこんな感じだった。真剣だったんだよみんな。(今でもみんな真剣だけど。)
 アルバムを通して聴くと、だが「眠れぬ夜」は明らかに突出している。浮いている、と言ってもいいかもしれない。もっと言えば、悪目立ちしている。たぶんアーティスト側も分かってるからA-3に据えているのだろう。A-1、A-2のような世界がずっと続けばいいと思ってる人は、A-3で、一体何が始まったの!と思うことだろう。だが、聴き慣れてくるとA-3が待ち遠しくなる。さらに聴き込めば、これこそアルバム芸術なのだと気づく。傑作だと思う。

 冒頭3曲の流れは完璧、ラスト3曲の流れも不滅。となると、間の6曲。しかしどこもイジリようがないんだよね(笑)。なんなんだこのブログはっ。
 アルバム・タイトル曲がA-5ってのもまた気が利いてるというか、意表を突いてるようで必然性があるというか。文句のつけようがない。
 個人的にはやっぱり「愛の唄」をもっと前の方に出したい気はする。それこそ「眠れぬ夜」の次とかA-6とかB-1とか。だけどほかの曲と入れ替えると、今度は「幻想」に唐突感が生まれちゃうんだよね。逆に「幻想」の方を動かそうにも、どこにも行き場がないし(笑)。ラスト3曲は固定。

 正直言うとB-1がちょっと弱い感じがするので、ここを補強したい。B-3「雨よ激しく」を持ってくればいいんじゃないだろうか。A面もB面も、1曲目は雨の曲で統一。こんなアルバムを待っていた!

 なんかイマイチつまらんな。思い切って「眠れぬ夜」の出し惜しみはどうだ、B-1に「眠れぬ夜」を・・。
 ダメだ、アルバム全体が崩れてしまう。「眠れぬ夜」がA-3にあるのは、やっぱり「眠れぬ夜」自身にもアルバム全体にもちょうど好都合なポジションなのだ。うむ、B-1も固定でいいや(笑)。
 うまくいかないね。

 そもそも、ルールをもっと柔軟にすりゃいいんでしょうが、そうすっと本当にグチャグチャになっちゃうからルールは堅持することにしますっ。

 私はやっぱりどうしても「愛の唄」を前の方に持ってきたい。禁断の手があった。奥ゆかしくもベストポジションにいる「ワインの匂い」をA-5から引きずり下ろすのだ。おお、A-5に置くと「愛の唄」が映える映える。「ワインの匂い」の方も。おお、B-4に据えるとアルバムのラストソング感が醸し出されてくる。そして問題の「幻想」との繋がりも、こ、これは良好だぞ。「幻想」の大締め感が増す!決してこじつけなどではない。決してこじつけではないぞ!!決して(ry




この道をゆけば


   A-1 プロローグ
   A-2 すきま風
   A-3 はたちの頃
   A-4 日曜日のたいくつ
   A-5 別れの情景(1)
   A-6 別れの情景(2)~もう歌は作れない

   B-1 新しい門出
   B-2 あの角をまがれば
   B-3 若すぎて
   B-4 のがすなチャンスを
   B-5 首輪のない犬
   B-6 わが友よ



 元々のファンでなくて『Three and Two』辺りから順に1枚ずつさかのぼり、無事このアルバムまで辿り着いた人などいるのだろうか。反語である。最初にこのアルバムを聴けばよかったのだ。
 私が失敗した人間だ。出会ったのは数年前のこと。いや「のがすなチャンスを」ぐらいは知っていたが、逆に言えばほかの曲は知らないでいた。もっと早く聴けばよかった。が、後悔しても始まらない。これから青春すればよい。
 これは素晴らしいアルバムだ。20歳の頃にタイムスリップできる(笑)。これを聴いていればいつまでも若くいられるアルバム・ベスト10に入ると思う。

 とにかく、全体に漂う空気感が心地よい。涼しげ、というか少しひんやりした空気。アルバムの発表は5月で、確かに初夏の訪れも感じさせるけど、秋の肌触りもする。歌詞に〈季節〉という言葉は出てくるが、『FAIRWAY』のように具体的な〈春・夏・秋・冬〉は現れない。そんなことも果たして影響してるのか?

 小田和正の作品が5曲、鈴木康博の作品が7曲。しかも、A面最初の4曲は鈴木作品。鈴木ヤス中心のアルバムだ。こんな時代もあったんだなあと素直に思うが、はっきり言って若干申し訳ないけど、そこが良いんだと思う。
 鈴木の歌詞の具象的なところが好きなんだよね、それこそキヨシローみたいな。何を表そうとしてるかが明確というか。共感できるかどうかは別として(笑)。 

 3分未満の短い曲が半分以上というのもまた良い。(←なんだ、ほめ過ぎだなあ)
 スパッスパッと曲が切り替わっていくのが後年のオフコースでは考えられず、むしろ新鮮。粘っこくて長いのは苦手。うむ、そういうことです。

 まず、このアルバムも最初と最後、A-1とB-6は動かせない。A-1に続くA-2も「すきま風」でキマリ。それに続くA-3、A-4も「はたちの頃」「日曜日のたいくつ」がベストなんだろうなあ。やっぱりこのアルバムは最初の4曲の流れがものすごくいいんだよ(笑)。いや、(笑)じゃないよ、本当だよ。
 B-1「新しい門出」もここがベストポジションかなあ。動かすとすれば、これら以外の曲になるか。

 B-4「のがすなチャンス」はこの位置でいいのかどうかが分からない。この位置だからこそ良さが発揮されてるのだろうか?
 例えば、B-1に「のがすなチャンス」を持ってくると、どうだろう、露骨感が出てしまうでしょうかねえ。露骨感て(笑)。
 いや、それより「新しい門出」が動いてしまう違和感がデカイ。B-1は新しい門出にこそふさわしい。なんか鈴木ヤス作品についてばかり語ってるな。
 「別れの情景」が(1)(2)と続くってのはどうなのよ。離すわけにはいかない何か事情でもあるのでしょうか。連続してることが大事なのか??
 B-2「あの角をまがれば」は、目立たないけどこの楽曲こそアルバムのメインテーマ。もうちょい良い場所に置いてやりたいところではあるが、これこそB-1「新しい門出」との繋がりがあるから、やたらに移動できない。
 やべ、やっぱどこも動かせない(笑)。

 うーんやっぱり「のがすなチャンス」をどうにかしたい。B-4でも曲は十分映えるし、アルバム的にも終盤を退屈させないための一つの方策という意味もあるんだろうけど、少し早めにこの曲を聴いて、後をゆったり過ごすのも良いような気がする。
 B-2に持ってこようか。「新しい門出」の次。こうしちゃうと「新しい門出」~「あの角をまがれば」という物語性が分断されてしまうんだけど、「新しい門出」~「のがすなチャンスを」という、よりストレートな物語が誕生する。一方「あの角をまがれば」をB-4にすれば、アルバムのテーマは実はこの曲なんですよ!というのが、より鮮明になるではないか。
 ああ良い。すごく良い。これでいきましょう。




 僕の贈りもの


   A-1 僕の贈りもの
   A-2 よみがえるひととき
   A-3 彼のほほえみ
   A-4 水曜日の午後
   A-5 地球は狭くなりました
   A-6 でももう花はいらない

   B-1 歩こう
   B-2 ほんの少しの間だけ
   B-3 貼り忘れた写真
   B-4 静かな昼下がり
   B-5 さわやかな朝をむかえるために



 このアルバムも就職してから購入した。最初のオフコースってどんな感じだったのか、ちょうど関心があったのだろう。逆に言えば、大人になるまであまり関心はなかった。少なくとも、必要な音楽ではなかったのだ。で、残念ながら、購入してからも滅多に聴かなかった。自分に必要な音楽ではない、ということを確認するという結果のまま止まってしまっていた。
 まあオチとして、今回このブログを作るためにオフコースを少しちゃんと聴き込むことができてよかったです(笑)、ということになる。
 避けてたわけではないけど、なんでオフコースを欲しなかったのかというと、小田和正の歌が眩しすぎるから、みたいなのが正直あったんだろうけど、今回分かったのは、穏やかな気持ちじゃないとオフコースは聴けないということ。オフコース、特に小田和正を聴くには、穏やかさが必要なんですよ。今なら大丈夫。私はようやくオフコースをじっくり聴けるような穏やかな気持ちになったわけ。ずいぶん時間がかかったな。45年ぐらいか(笑)。


 どうも1980年のコンサート・ツアーの模様のラジオ放送ってのは、私にとって決定的だったようで・・。
 懐かしい歌ですけども、と鈴木ヤスがギター1本で歌い出したのが「でももう花はいらない」。懐かしいも何も初めて聴く歌だったが、当時アコギを始めた連中はこの曲の弾き語りを目標にしていたものだ。
 オフコースの1stアルバムといえばやっぱり「でももう花はいらない」だよなあ、でもそれは昔聴いたラジオの影響だよなあ、若い頃の印象が残り過ぎてるんだろうなあ、とずっと思っていた。違う。今回改めて1stアルバムを聴き込んでみて、「でももう花はいらない」は明らかに傑出した楽曲であるということを確信した。←今頃こんなこと言う奴なんか世の中にいねーだろうけど、

 これが23~24歳の若者の手による作品だろうか。完全に成熟した大人の男の歌だ。
 学生が社会に出て行く際の決意表明、あるいは諦念、若しくは吉田拓郎の「望みを捨てろ」的な覚悟の歌、のように捉えていたが、そんな時空・次元の話ではない。そのような悲壮だった時代を顧みている心境、そう、例えば今の私の心境を歌っている曲なのだ(爆笑)。ホントよ。
 鈴木康博のこういうところだよなあ、好きなのは。

 小田より鈴木の方が男性的、っていう意味は、モテない男の恨みつらみ、若者の焦燥とかを歌っているというニュアンスも含まれてるのだろうが、小田和正が争いごとを超越してる男の歌なのに対し、鈴木は争わざるを得ない男について歌っているのだ。
 これを理想と現実、というふうに言い換えられるとちょっとシャクにさわる(笑)。我々は、立ち向かわざるを得なかったんですよ。そしてようやくホッと一息、「でももう花はいらない」の境地に達すると同時に、穏やかな気持ちで小田和正の歌も、素敵な贈りものとして楽しめるようになった。ようやくなんだよ。

 んなわけで曲順だけど、その「でももう花はいらない」はA面のラストでいいのかなあ。『We are』の項でやった「いくつもの星の下で」みたいにB-1に持ってきたい気はするが・・。でも、A-6でひっそりしてるからこそなお良いのか。B-1にドヤ顔でデンと居座られて存在感を誇示されたらちょっと嫌か。。どうなんだろう、よく分からない。
 しかしA面ラストにあるってのも、存在感の誇示っちゃあ誇示。B面の真ん中辺りの方が謙虚で潔くて好感度がさらに増すかも。
 それこそ、B-2「ほんの少しの間だけ」と入れ替えるのはどうだ。‶ それこそ “ というのは、いかにも「ほんの少しの間だけ」はA面あるいはB面のラストっぽい曲だから。もちろんこの曲がB-2にあることにより、アルバム全体に深みをもたらしてるんだろうけど。
 もし「でももう花はいらない」をB-2に据えると、B-3「貼り忘れた写真」との連携が独特になり、正に鈴木ワールド全開となる。しかしそうすると、ほぼA面:小田、B面:鈴木とあたかも分担してるかのようなアルバムになってしまう。それでも構わないかもしれないけど、混ざってるからオフコースだわな。
 A面の中ほどへ持ち上げるのはどうだろう。いやーしかしA-3は鈴木ヤスの事実上の紹介の歌だから、ここに「でももう花はいらない」を置いたのでは重くなる。A-4「水曜日の午後」も、いかにもA-4感漂う曲であって、A-4にあるから良いのだ。
 となると、A-5「地球は狭くなりました」と交換か。ふむ、案外いいかもしんない。「でももう花はいらない」はより輝きを増すし、「地球は狭くなりました」は風格を帯びてくるではないか。
 よし、これでキマリ!
 って、隣同士入れ替えただけじゃん、

 鈴木康博ブームでもない、小田和正ブームでもない、オフコースブームが来てほしい。